横山大観についてわかりやすく解説!
こんにちは~
本日は 横山大観 についてご紹介したいと思います。
横山大観は、明治・大正・昭和の3時代で活躍した近代日本画の巨匠として知られています。
そんな大観についてわかりやすくご紹介したいと思います。
01. 横山大観とは
横山大観は本名ではありません。本名は横山秀麿です。大観というのは雅号です。
水戸藩士、酒井捨彦の長男として誕生し、1888年に母型の縁戚である横山家の養子になります。
学生時代から絵画に興味を持ち、洋画家の渡辺文三郎から鉛筆画を学びます。
結城正明、狩野芳崖などの教えを受け、東京美術学校(1887年に東京府に設立された唯一の美術学校)に合格します。勉強期間は2~3か月ほどであったと言われています。
多くの受験生が師に何年も教わって鉛筆画で受験すると聞くと、試験直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請したそうです。
入学後は岡倉天心、橋本雅邦などに学び、同期には下村観山、西郷孤月、後輩には菱田春草がおり、充実した学校生活を送れていたのではないかと考えます。
美術学校を卒業後、京都に移り、フランス絵画の研究を始めます。
それに加え、京都市立美術工芸学校予備科教員となります。
1896年に予備科教員を辞めて、東京美術学校の助教授となり、2年間働きます。
1898年に日本美術院創設に参加しました。新たな画風の研究を重ねたものの、保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まり、海外で展覧会を行いました。
そこでは高い評価を得て、国内でも次第に評価されるようになったのです。
1907年、文部省美術展覧会の審査員になりました。
1913年には日本美術院を再興しました。
戦後には、文化功労章などの章を受章しました。
1958年に亡くなりました。
大観の脳はアルコール漬けされた状態で東京大学医学部に残されています。
89歳と長く生きた大観ですが、酒豪としても知られています。若いころは全く飲めなかったらしいですが、鍛えて飲めるようになったそうです。
02. 横山大観の作品
ここからは大観が残した作品をご紹介します。
無我
この作品は大観の代表作「無我」になります。1897年に作られました。
大観が29歳の時に、同級生の容姿を想像して描いたものです。
この絵から仏教的な悟りの境地が感じられると話題になりました。
白衣観音
1908年に作られました。水辺の上に腰を掛けている白衣観音が絹地に彩色されて描かれており、インドの風俗を念頭に置いて描かれたと言われています。
生々流転
1923年に作らてた、「生々流転」。第10回院展に出品した水墨画の長巻で大観の画業におけるピークを示しています。
生々流転とは四字熟語で全てのものが絶えず生まれては変化し、移り変わっていくことという意味です。
この作品では、流転する水の命が絶えず、循環していく普遍性をテーマにし、雨水がやがて大河となり、大海へでて、最後は飛龍となって飛び立つ姿が描かれています。
夜桜
「生々流転」の後に描かれたのが、この「夜桜」になります。
美術愛好家、大倉喜七郎の依頼で描かれました。
霊峰飛鶴
大観が85歳の時の作品。最晩年に描かれた最高傑作の富士山です。
大観の代名詞は富士山と言われています。数多くの富士山を描き、その数は700点以上とされています。
日本画の魅力を一番訴えることができる対象は大観にとって富士山だったのです。
東京にある横山大観記念館は彼が亡くなる前に住んでいた上野池之端不忍池のほとりにある日本家を利用した美術館になっています。
横山大観の作品はもちろん、彼の日常を感じれる美術館になっているため、とてもおすすめです。
03. まとめ
いかがだったでしょうか。
簡単ではありますがご紹介させていただきました。
私は高校生の時、横山大観を授業で覚えさせられた記憶がよみがえりました(笑)
調べてみて、授業では習わないことを知れて、とても興味深かったです。
明日の告知をさせていただくと、デッサンで箱ティッシュに挑戦しました!
ではまた明日!!
最後までお読みいただきありがとうございました。